ベルナール・ラノーの12の機械部屋 (1)

この資料は、ダンボールを使って、フランスで行われたベルナール・ラノーの 「人間と機械のフェア」 を、当会場で配布された資料をもとに翻訳したものです。文体がフランス調のエッセイ風なところが多くでていますので、資料のニュアンスをできるだけ維持しながら、部分的には日本語調の表現に直してあります。
この資料は、1976年に発行されたもので、所属は当時のものです。

資料提供 共立女子大学: 伊藤 紀之 先生
翻訳 麗澤大学: 花田 淳子 先生
 〃 千代田紙工業: 片山 和人 学習素材研究室長


1977年8月。オルレアン(ORLEANS)で会う機会があった。
機械文明と人間の関わり方をテーマにした演劇に取り組んでいた。制作の応援にかけつけていたのは、ムーランルージュのスタッフだった。
前列右から2人目がラノー氏。その左が、財団法人21世紀教育の会(専務理事)の佳子先生。後列左が、このページの作成者。




会場:ポンピドー国立芸術文化センター
(フランス・パリ)
会期:1975年6月19日〜10月31日


フランソア・マチーイから寄せられたメッセージ

展示会には、いろいろ企画の売り込みがあるが、今回企画した「ベルナール・ラノー12の部屋」は、彼自身がCCI(工業開発センター)を通して提唱していた「機械の国」の構想と、H.Szeemannが装飾芸術館に提唱していた「ひとりぼっちの機械」の構想が一体となって実現したものである。
その中に流れる基本的な指向は、機械化社会の現状をユーモアと批判を交えて、私たちと機械の関係を非常に まじめな目でとらえている。
しかし、この催しを見ていただく方には、あまり大きな意味づけは不要だと思う。

ただこの中で一つ注目してほしいことは、ラノーの行ったこのダンボールでの企画が、やたら難しい理論を教えているのではなく、最後には「機械はしょせん機械なんだ」というように、その能力の限界を明らかにし、「機械万能の思想」を嘲えるように構成していることだ。
とはいえ、機械は今後とも私たち人間を支配するだろう。
焼き肉器や天文学時計をはじめ、新しい機械工具は、ユリシーズの人魚のように我々を魅了することだろう。
しかし、機械はあくまで機械であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないことを、私たちは正確に知るべきである。

機械は誰もが知っている通り、信頼性が高く正確なものであるが、信頼しきってはいけない。分解などを通し、構造を知ることによって、機械は人間ではできない夢をなしとげてくれる役割を持っているが、それに全てを任せてはならない。
この考え方こそが、この催しを通し、ラノーが私たちに語りかける。そしてCCIが私たちに提供する最大のメッセージである。
最後に、この催しは 歯車や滑車を使って、実におかしな動きを見せてくれ、その中で 私たちに一つの励ましを与えてくれることを付け加えておきたい。

レイモン・ギドから寄せられたメッセージ

かなり限られた分野でのみ使われている材料であっても、その材料の最も上手な使い方は、単に素材の化学的・物理的・機能的な性質だけでなく、その材料の応用的な使い方や、特徴の見直しによって、大きく変わってくる。
そう考えてみると、そこに常識(既成概念)に対する素朴な疑問を生じ、そこから一つの遊びを見出すことができる。

そこでラノーは、ダンボールが決して強いものでないことを充分に承知した上で、「強さ」に挑戦している。これは既成概念へのちょっとした挑戦であり、体験を通す中で、ダンボールの強さを確認してゆく。
ラノーは、ダンボールの特徴を次のように見ている。
切りやすくて軽いこと。ショックによって壊れても、その部品を貼りあわせたり補強することによって、動いたり、動かしたりする機能には ほとんど影響がない。
ダンボールを素材として いろいろな構造物に取り組んでいくと、時には壊れ、補修していく中で、深いインスピレーションやアイデアが浮かんでくる。

ラノーは、この動く構造物をつくる際、補助材として、帯や接着テープ、天然または人工の羊毛などが適当だと考えた。
そして過去4年間、ダンボールを使って子どもたちは、この中で工夫し、考え、自由に操作をしたが、ダンボールを使った構造物は、予想以上に耐久性をしめした。
このように、一つの素材を別の観点から使ってみようという意欲的な研修は、素材の隠れていた特徴と、応用の引き出しに成功した。

シャンタル・ベレから寄せられたメッセージ

これは、大人が考え一方的に押し付けつような子どもの遊びではない。俗に言う教育的配慮がなされたり、社会性を身につけるような遊びでもない。

ラノーは、このダンボールで作った機械の国を通し、ある面では遊びとは何だろうかと問いかけて行く。その遊びとは、大人に対しても子どもに対しても、さまざまな材料に対する深い信頼を培うといった遊びだ。
さまざまな材料というのは、ダンボールでチューブ状や箱状、または車輪のような形で構成されたユニットであり、それらは組み合わされたり回転したりしている。
ダンボールで作られた筒は、誰にでも判るような過程で嵌めこまれており、ダンボールで作られた歯車は筒を上手に組み合わされ、歯車はベルトによってクランク軸につながり運動している。
このような構造物が置かれている中で、子どもも大人も自由な行動をとっている。組み合わせを自由に変えてみたり、動きを変化させてみたり。

時には、外れたり壊れることがあるが、それは どのように修理し、元のように活動させるかに取り組むテーマのはじまりである。その挑戦の中で、今までに発見できなかった喜びや驚きに出会うだろう。

この遊びは、何かを生産しようとするものでもなければ、芸術のように 何か素晴らしい表現をしようとするものでもない。
単に機械の動きだけでなく、参加する人たちとともに始まる いろいろな状況の変化を、どう対処してゆくかが全てである。
一見、不毛とも見える作業だが、これは発明や工夫に対する考え方や行動のおきる一番大切な土台をつくってくれる。
ここで遊んだ後は、まるでピクニックに行ったときのような爽やかさが残る。



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後年の追記(2005年:記)
ラノー氏と会ったとき、日本での実践記録(写真)を数十枚持っていた。彼は、その写真を、ぜひプレゼントしてくれと、強い希望を述べた。
ダンボールをつかった「12の機械部屋」が、相当部分を大人が仕掛けをつくっているのに対し、日本で始めた「ダンボールプレイ」は、安全や強度に対する最低限の説明にとどめ、仕掛け自体を子どもたちが創っている。大いに興味をかき立てられたようだった。
私たちにとってラノー氏の活動は大胆であり大いに教えられる面があったが、ラノー氏にとっても、子どもたちが手探りで仕掛けを創るダンボールプレイは、氏の想像を上回る大胆な展開であると言う。
共通する面が多々ある。素材(ダンボール)に対する見方や、「壊れたことろから、次のドラマが始まる」 といった実践と体験である。